神の摂理と 日本 (その1) ・・・・・ 皇族牧師 小林 隆利 師 随聞記
2010年1月11日
明治天皇の孫、小林隆利牧師の秘書を勤めた、INRI 研究所 島 茂人 兄弟(MK兄弟)が、2001年から2009年まで、数回に分けて直接会って取材したインタビューをもとに寄稿しました。
小林牧師は、現在、84歳(大正14年生まれ)で、すでに牧師職を引退され、和歌山の娘さんのところで余生を送っておられるそうです。
(* これらのシリーズの内容は、2010年1月創刊の雑誌「HOPE」(泉パウロ師・純福音立川教会牧師)に毎月掲載予定です)
(* 小林牧師の、@ 戸籍上の姻戚関係、A DNAのユダヤ性、の両方が確認できれば、天皇家のユダヤ性を間接的に証明できるはずである。)
以下、文責: INRI 研究所 島 茂人 兄弟
皇孫牧師INTERVIEW 日本と天皇を語る
神の摂理と日本 其の1
皇族牧師 小林隆利師 随聞記 2009年 INRI研究所 監修
(新資料による増補加筆版)
2001年2月号・4月号 ハーザー誌掲載 スペシャル・インタビュー
「皇室に流れるキリストの生命」小林隆利牧師 (2009年増補版)
日本における宣教を考える時、天皇(制)の問題は決して避けて通る事の出来ない問題である。今回、小林隆利牧師(明治天皇内親王 仁(しのぶ)様の御長男)にインタビューを試みた。驚くべき内容が含まれているが,今後の日本宣教の一助になればと願っている。(マルコーシュ・パブリケーション転載承認済)
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小林隆利牧師プロフィール
大正14年、明治天皇内親王 仁(しのぶ)様の御長男として名古屋に産まれる。幼少の頃から名古屋の救世軍の礼拝に仁様と出席。その後、出隆(いでたかし)東京大学教授・哲学博士のもとでマルクス哲学を学んだ後、立命館大学で数学物理学を修める。京都にて大江邦治牧師の説教により入信。ナザレン神学校第一期生として卒業後、ナザレン教団久村教会、千葉南総町牛久教会、北九州小倉教会、大阪田辺教会の牧師を歴任。その後、単立堺鳳(おおとり)教会牧師を経て、手塚山朝祷会チャプレン、巡回牧師の任にあたられた。天皇家ユダヤ民族研究会主宰。
明治天皇が内親王・仁(しのぶ)様に伝えられたお言葉
編集部
今日は、お忙しい中ありがとうございます。今回は、明治天皇以来、皇室にどのようにして、キリストの生命が伝わってきたのかということをお伺いしたいのですが。
小林牧師
私の母の名は、仁(しのぶ)といい、明治天皇自ら命名されたと聞いています。
明治天皇によほど愛された方だったようで、お前が男であったらなあと、何時も言われていたそうです。明治天皇は私の母に、次の事を教えられたそうです。
「仁(しのぶ)、私は天皇の権限で日本という国を調べた。その結果、日本は元来、神道の国である。而して、その神道のルーツはユダヤ教である。」と。
編集部
そのようなことを、明治天皇は、お母様に語られたのですか!
これは、衝撃的な事実ですね。
小林牧師
事あるごとに、母に語っておられたそうです。
編集部
明治天皇はお母様に、「神道のルーツはユダヤ教にある」と。
小林牧師
そうです。天皇の権限で調べたのです。ですからこれには誰も反論できません。
編集部
それでは、先生は、どのような経緯でキリスト教の牧師になられたのですか?
小林牧師
明治天皇は私の母に、「仁、おまえが結婚して男の子が与えられたならば、キリスト教の牧師にするのだよ。きっと役に立つ時がくるぞ」と願われたのです。
編集部
それでは、明治天皇の中で、ユダヤ教とキリスト教はどのように結びついたのでしょうか?
小林牧師
明治天皇は「ユダヤ教の完成がキリスト教」であると、理解されていたのです。これには、フルベッキ博士の影響が強くありました。
フルベッキ曰く、特別な国・偉大なる約束の地・日本
編集部
フルベッキは天皇及び日本人についてどのように思っていたのですか?
小林牧師
彼は日本という国に、天皇という存在に特別な思いを抱いていました。あとでお話しますが、かつて日本を訪問した諸賢の著作から、そしてフルベッキが日本を訪れて実際に見聞きした体験から、日本の民族について深い尊敬と畏敬の念を覚えていたのです。寡黙なフルベッキが本国の宣教団体の幹部に宛てて認めた「アメリカで最高の宣教師たちの派遣を、この日本の地へ」と延々と熱心に要請した手紙です。彼はこの手紙をできるだけ多くの同労者に回覧する様に希望しています。
「敬虔で天分に富み、美質を備え才能ある宣教師がそちらにいないでしょうか。
得られないと思うと辛いです。(中略)崇高な事業、天賦の才を受け入れる場所があるとするならば、それはここ日本であり、まさに今なのです。影響力を広く永久に持ちたいと望む、崇高な野望を有する人がそちらにいましたら、ここ日本が彼らの働く場所です。神聖な大志を達成する為の偉大なる約束の地を、彼らはここで見つけるでしょう。これは誇張ではありません。単純な事実です。もしもこのことが有望な青年たちに理解されたなら、その中には、必ずや神に選ばれた者があり、その人は他のあらゆる計画や将来の見込みを投げ出し、この特別な国で、無条件に神の目的に身を捧げるものと思います」
フルベッキは日本という国を、神の経綸の中で誇張ではなく事実として「特別な国、偉大なる約束の地」と位置づけていたのです。そして偉大な約束の地の盟主・天皇の存在を、神の経綸の中で彼はどのような位置づけをしていたのかを、追って詳しく話していきたいと思います。フルベッキは宣教師として、明治天皇に近く在りつづけた唯一無二、空前絶後の存在でした。天皇に即位する以前から信頼の絆で強く結ばれ、即位後も、日本の維新の黎明期から次第に、そして力強く建国していく歩みを見つめながら、日本の地で68年の生涯を全うするまで仕えた器でした。寡黙で約束を決して違わず、自らを誇らず、常に謙遜に仕え、深い洞察、時代を鋭く看破するこの神の人の口からは、聴く人をして驚嘆せしめ、黙さしめて喜びの福音以外、語ることなく見事に生涯を全うしました。しかし私たちは、彼の残した足跡をたどり、彼の行じた中にその回答を見る事が出来ます。言えることが一つあります。それは、彼を避けては明治天皇と明治の時代そして日本の近代史を語ることができないということです。
フルベッキの真摯なる人格
編集部
フルベッキ博士の名前は、これまで日本の開国史の表面にはあまり出て来なかったように思われますが・・・。
小林牧師
その通りです。其の必要があったのです。当時の日本は、外国人にとって危険極まりない状況を呈してをり、維新後も生命を常時脅かされて犠牲者も実際出しているという国でした。まして彼は、禁制とされているキリスト教の宣教師として夫人共々入国していましたし、子供たちにも恵まれていました。そのような緊張の状況下に、絶えず身辺に密偵や暗殺者の影に脅かされていたのですが、神様は彼に「知彗」を与えたのです。若き志士たちー熱誠の愛国心と理想と向学心に燃え、どの国民よりも誇り高く矜持を持った若き侍たちに対して分け隔てなく、神の使徒として何事にも真情を持って接し、彼らの求めていることを察知して真摯に真実をもって接し、そして何よりも徹底的に黒子に徹すべく細心の注意をもちながら臨機応変に、あるときは大胆に日本の進むべき道を指し示しました。
編集部
フルベッキは当時の日本のどのような人々と接触していたのですか?
小林牧師
信仰の人、フルベッキ博士は若き明治天皇を始め、勤皇、佐幕派を問わず、実に当時の有数な要人・憂国の志士達と交わり、当時の世界とアジアの趨勢を知らしめ、絶大にして決定的、広範にして深刻な影響を与えた偉大な人格者でした。とりわけ開国絶対反対の超保守的幕藩勢力からも一目置かれるまでの信頼を得ていた稀有なる存在となりました。彼の信仰はモラビアンの影響を受けた筋金入りの聖霊の器だったのです。彼は神様が日本のために聖別され遣わされた特別な使命を持った選びの器でした。明治維新という日本の激震の時代をはさんで当時の日本の中枢の指導層に与えた影響は計り知れず、その功績は枚挙に遑(いとま)が無いほどです。
日本に遣わされた「神の人」
編集部
フルベッキは、当時、曲がり角の日本において、最も重要な、隠れたキー・パーソンだった、ということだそうですが、詳しくご説明を頂けたらと思います。
小林牧師
彼は、米国オランダ改革派教会派遣の宣教師として1859年5月7日サプライズ号でニューヨーク埠頭を離れ先ず上海に向かいました。出航の彼の様子は斯く形容されています。「旗が掲げられ、祝砲が放たれる中(中略)遥かなる、名だたるジパングへ、天恵の使節が出帆していったのです。ブロンドの髪をした、
若々しく、背が高く、まじめで思慮深い感じのギドー・F・フルベッキの姿を忘れることなどできるはずもありません」1859年(安政6年)11月7日の夜、長崎に着きます。彼の言葉を借りれば、「天国と見紛うばかりに美しい」という感嘆の中で上陸しています。上陸後、日本では江戸時代末期のキリスト教禁令下でしたので、有志に語学を教えながら、この時を生かして将来のために、猛烈に日本語と日本の歴史、当時の日本の書物を勉強することになります。彼は召命前の職歴を通して得た技術・実学を始め、百科事典のような博覧強記に加え、語学にも天賦の才に恵まれていましたので、母国語のオランダ語のみならず、英語を始めとして、ドイツ語、フランス語を自在に操り、そしてギリシャ語、ヘブライ語にも深い造詣を持っていました。やがて彼の日本語は、日本人が聞いても襟を正すほどに、荘重で香り高く、流暢にして優雅、どのような階層の人々の心をも捉えて離さないまでの日本語に上達するのです。それに加えて、各時代の日本語の書物の文体の壮麗さをも、音読しながら習得していったのでした。後日、日本の文壇に空前絶後の影響を与えたといわれる明治12年発刊の「文語元訳新約聖書」、明治20年の新旧両訳の「文語元訳聖書」の翻訳事業にも携わり発刊を見るのですが、その中でも世界最高峰の翻訳と言われた「詩篇」「イザヤ書」はフルベッキによるものなのです。
彼は、幕府の命によって長崎奉行の設立した語学校「済美館」をはじめ佐賀藩が長崎に設立した「致遠館」の語学教師として着任し、ことに「済美館」では校長職を任じられることになります。そしてフルベッキの評判は瞬く間に巷間に広がり、加賀藩、佐賀藩、薩摩藩、土佐藩、肥前藩の藩主からの直々の訪問や援助、教職の要請などを受けるほどでした。その名声を慕って日本各地から参集した大名の子弟を始めとして、やがて明治維新の原動力の土台となる人々を含めてその数は600人を超えたといわれています。
編集部
長崎という地にありながら、フルベッキは早くも尋常ならざる働きを担ったわけですね。
小林牧師
今から思えば、当時の日本最西端の地、長崎に台風の目が上陸した様な感じさえしますね。
これまでの世界の歴史は、列強諸国による、中央・南アメリカ・アジア・アフリカに施策しつつある植民地政策、収奪し屈服・隷属させて、あくまでも本国を豊かにすることを目的に接近してくることを常としていたのでしたが、フルベッキの場合は違っていました。彼は、列強諸国の戦略をかわし日本が自主独立の道へ進むよう、備えて下さったのだと私は確信しています。神様はフルベッキを通し絶えず強き御手をもって導かれていたように思います。
フルベッキの日本及び日本人観
編集部
フルベッキは日本、そして日本人に対してどのような考えを持っていたのですか?
小林牧師
フルベッキが日本を訪れて間もない1860年1月の同胞に宛てた書簡にはこの様に日本人について記しています。「現在、異教と暗黒と悪行の中にあっても、日本人は知識欲旺盛な人々で高い道徳心を尊ぶ気持を持ち、彼らが持っているものより、また彼らの今の状況よりもより良い判断したものは喜んで受け入れます。」また1864年の5月、日本の国内事情を本国に伝える彼の手紙の中で、「この地の人々は一種『独特な人々』になると確信しております。なぜならば、日本人の中には最も高尚な道義を持つ受容力が存在し、親愛の情の芽生えが素直に感じられ、彼らの新しい誕生は実を結ぶ、と私は考えているのです。」と認めています。フルベッキは、訪日前に、当時外国で出版されていた日本に関するあらゆる書物に目を通していました。医師にして日本研究家のドイツ人ケンペル。かれは戦火に明け暮れ疲弊したヨーロッパ行脚の果て、元禄時代の日本の長崎に上陸します。そして江戸参府の栄誉にも浴し、将軍綱吉との謁見を実現しています。帰国後、彼の著した「日本史」「廻国奇観」のなかで、「鎖国は神の賜物」と激賞し、「生活習慣や芸術、道徳の点でこの国の国民はほかのあらゆる国の人々を凌駕している」と述べ、「日本人のルーツはバビロニアに捕囚された人々の末裔に違いない」と断定しています。これらの著作は当時の欧米の知識層にはベストセラーとなって迎えられ日本ブームの先駆けとなった画期的な書物となりました。彼の著作に触発された人は多数にわたり、その後日本に来る、高名な植物学の大家リンネの弟子でもある、医師にして植物学者のツンベルク(スウェ−デン人)にも及んでいました。彼は当時、日本研究の第一人者となりました。その後、フルベッキは、シーボルト(ドイツの医学者、博物学者)とも直接に接触しています。
編集部
フルベッキはこの日本に特別な思いを抱いていたのですね。
佐賀藩家老 村田若狭守を巡る人々の救いの御業
小林牧師
入国して5年目、混迷いよいよ深まりつつある幕末の1864年(元治元年)の年明け早々に、神様はフルベッキに「見よ、汝の前に門戸を開放した」との御言葉を下さいます。
編集部
それは素晴らしい御言葉ですね。日本の開国を神様が推し進めて下さっているキーワードのようにも思える重要な御言葉ですね。
小林牧師
そうですね。以降、その時に賜った御言葉は、活きて働き始め、神様の御業が顕現され始めます。フルベッキは、多数に及ぶ、将来の日本の要人たちとの接触が多く与えられてくるのです。慕って来る人々にフルベッキは、鎖国によって封じられている彼らの固着した偏狭な視座を解き放ち、世界的情勢の見地から日本のあるべき姿を説いた上で、非常下の日本において群雄割拠・内紛・分裂状況になることを厳しく戒め、挙国一致して諸外国の攻勢に対処しながら自主独立の新時代を迎えるべき事を、真摯にそして誠実に説いたのでした。
編集部
世界的な視野から、日本の置かれている現状を、混迷の最中に客観的に正確に把握し進路を判断することは、当時の日本人には全く持って不可能だったような気がしますね。フルベッキの存在意義の重要性がわかるような気がします。
小林牧師
フルベッキ博士は、「ヨーロッパ・アメリカ各国の政治とその基本である憲法を学ぶ必要があります」と説き、そしてキリスト教禁令下にも拘らず勇敢にも敢然と「何よりもそれら総ての根本であるキリスト教を知り、バイブルを読むことです」と薦めるのです。
乞われるがままに有志に対しては秘密裏にバイブルクラスを開きました。それらの選りすぐられた人々の中には、密使を介して熱心に受講し続けた佐賀藩家老、村田若狭守のグループも含まれていました。彼は、奇跡的、感動的な導きを通して、洋上に漂う英語の聖書を手にしてから12年後の1866年5月、日本におけるフルベッキの初穂となり、彼を讃嘆させたのでした。彼による日本宣教史上での最初の受洗者となる為に神様が用意された器でした。1854年頃、彼は家老という職務上、長崎沿岸の防御と警備の最高責任を担っていました。或る時、長崎港近海の沿岸警備にあたっていた監視役の家臣・古川礼之助が偶然波間に漂う「油紙で厳重に梱包された小さな書物」を発見する事になります。そしてその「書物」は若狭守の許に届けられることになります。その「書物」は装丁も異なった上に特別な装飾文字で記されていて尋常ならざる雰囲気を醸し出してをり、若狭自ら慎重に用心深く取り調べたそうです。早速オランダ語通詞を通してその内容を知ることになります。通詞は若狭に、「この本は森羅万象の創造者のこと、神と真実について語ったイエスのことが書かれてあり、いたる所に箴言と信仰が読み取れる」と語ったそうです。これを聞いた若狭はますます興味をそそられ、内容をすべて把握したいと考え、家臣の見習医師であった江口梅亭を医学研究の名目で長崎に遣わしましたが、その本当の目的は、この「特別な本」についてオランダ人から直接、更に詳細な情報を得る為でした。オランダ人から漢訳聖書の存在を聞きつけた若狭は、密使を上海まで遣わして念願を果たすのです。彼は佐賀の地で漢訳聖書を通して新約聖書の研究をはじめました。独りのみならず、秘密裏にごく内々で聖書研究の会を持ちます。未だ見ぬ教師フルベッキはそのころアメリカにをり、約6年後の初見の時を待つ事になります。若狭は時々情報収集のため弟の村田織部を長崎に遣わしました。1859年、長崎に上陸したフルベッキの存在を、やがて知る事になるのです。村田若狭は間接的ながらも弟織部や密使を頻繁に遣わしフルベッキと長期間、頻繁に交流を重ねながら、漢訳聖書を介して真の神の教えを求め続けるのです。
そして若狭守が夢にまで見るほどに待ちに待ったその時を迎えるのです。
1866年5月若狭は家老の職を辞し背水の陣を敷いて、弟の綾部らを伴い初めてフルベッキ宅を訪れ、彼を驚喜させます。初対面の彼は、背が高く威厳があり、実直で高潔な紳士のような風貌をしていたと語っています。彼は気品のある物腰で印象的な挨拶をされた後、フルベッキに対してこう口を開いたと記しています。「私は心の中であなたをずっと存じ上げておりました。そして言葉を交えたく思っていました。神の摂理で、光栄にもようやくお目にかかれて、非常にありがたく考える次第です」間接的ながらもフルベッキのいる長崎と佐賀を、振り子のように頻繁に密使や弟を遣わし漢訳聖書を介して真の神の教えを求め続けてきた若狭守が夢にまで見たフルベッキとの初対面の様子を「何時間も及ぶ彼との語らいの中に、聖書の御言葉をあたりまえのように自在に引用し、しかも的を得て御言葉を語る姿に驚嘆し、若狭守の信仰の尋常ならざる姿勢を伺うことが出来た」とフルベッキは自ら語っています。そして若狭守はフルベッキの警告をよそに、不退転の意思をもって受洗の決意を申し出るのです。実に死をも覚悟した行為でした。熱心なる求道の末に、遂に願いが叶いフルベッキとの初見の席で、深く燃え立つような感懐を吐露した若狭守の言葉が、読む人の心を震わせます。
「初めて、イエス・キリストの人格と働きについての話を読んだときの感動を、どう表してよいのかわかりません。そのような人を見たことも、聞いたことも、考えたことすらありませんでした。私は驚きで満たされ、感極まり、イエスの姿と生涯の記録に心を捉えられました。」
そして若狭守から始まった神の御業は、禁教下の体制の佐賀藩内にも拘らず、奇跡的に静かにそして確実に一族ら周辺の人々に広がっていくのです。
編集部
藩主鍋島公の寛大な措置が、若狭守らの上に及んだわけですね。
小林牧師
まさに神様の奇跡の業ですね。ご存知の通り、禁教下の幕藩体制のキリスト教への改宗は、一般の人々は十字架に磔にされ竹槍で処刑、侍の場合は切腹という極刑に処せられるのを常としていたのです。幕府は若狭守の改宗を聞いて藩主に処罰するように命じましたが、しかし、佐賀藩主鍋島公がそのために施行した刑といえば、見せかけに関係書物を数冊焼却しただけだった、と記されています。その様な恩寵溢れる中に、村田若狭守らを初穂に其の救いの御業は村田家4世代にも及び、彼は平安と祝福に満ち溢れた晩年を過ごしたそうです。村田若狭守は田舎の別屋敷に隠居し、美しく静謐な景色の中で日本の将来とキリスト教化を祈りつつ、漢訳聖書の日本語翻訳に従事しながら、受洗して8年後の1874年・明治6年、思い残すことなく享年60歳の生涯を終え神の御許に召されたのでした。村田若狭守の家系は「イエス・キリストの下で良き実りのある枝が育ち、青々と茂っている」そうです。
この一連の神様の祝福に満ち溢れた素晴らしくも麗しい御業の数々は、その後日本においてフルベッキによる水面下での縦横無尽の活動の先駆として、誠に象徴的な出来事だったように思います。神様は若狭守とその一族の上に成された御業を端緒に、フルベッキに語られた御言葉を更に確かなもの、強固なるものとされて、この国の激動の時期を導いて行かれるのです。しかしフルベッキを通して成された多くの主の御業は当時の疾風怒濤の混迷の時代的背景から、当然ながら緘口令(かんこうれい)が敷かれたうえに厳しく封印され、時の満ちるまで、公開の時を待つ事になるのです。
編集部
内憂外患の時期にも、日本の来し方・行く末に、フルベッキを中心にして神様は深く関わっておられたことがよくわかります。
前代未聞にして稀有なる神の器
小林牧師
本当に其の通りですね。当時の日本はアメリカをはじめオランダ、フランス、ロシア、イギリスなどの列強諸国の開国への圧力と権謀術策に曝されながらも、日本を愛して止まないフルベッキは長崎の地にあって、明治維新直前の緊迫した時期にも拘らず、体制の分け隔てなく慕われる生徒たちに支えられます。彼の長崎での授業は「一日とて休む日は無く」続けられた、と伝えています。実際、彼の元に頻繁に訪れる薩摩、肥後、佐賀、長州、加賀、土佐などの多数の藩主や重臣・藩士や脱藩者・勤皇・幕藩の志士たち、有能なそして、やがて日本を背負って起つ有数の要人らによる「激しい熱意という形での友愛」をもって支持されていたのです。その講義は語学に留まらず、天文学、航海術、数学、測量術、物理学、化学、築城学等にまで及びました。惜しむことなく門戸を開き、胸襟を開き、世界とアジアの情勢を語り、将来の日本の在るべき姿と指針をしめし、彼らの質問責めにたいしても諄々と解き明かし適切な助言を与えながら、時には親身になって相談に応じ、あるいは留学の紹介の労をとり、神から遣わされたあたかも「全権大使」のように接していた、とある宣教師は述べています。
編集部
フルベッキは通史には全く触れられていない水面下において、まさに八面六臂の活躍をされていたわけですね。
小林牧師
「まさに神の全権大使」です。特筆すべき事は、フルベッキは、これまで日本に関わってきたあらゆる宣教師たちの中でも誰一人として為し得なかった、驚嘆すべき「知彗」をもって日本人にアプローチした前代未聞の神の器でした。その「知彗」とは、数知れない日本人との接触のなかで、鉄頭鉄尾自らの主張を押し付けることなく、当意即妙のやりとりの最中に、あたかも相手が自ずから考え出したかのように会話を持って行くという、そういう「知彗」を心得ていたのです。彼の習熟した日本語と豊富な語彙と卓越した会話力をして初めて為しうる「知彗」であり、しかも慎重に言葉を選び、的を外す事なしに全神経を総動員しながら、正に彼しか為しえない方法で、聖なる目的を遂行していった「神の器」だったということです。
編集部
神様はフルベッキの様な特別に選び別たれた器を、大切な時期に日本にお遣わし下さったのですね。神様は日本という国を特別に愛して下さっているように思えてなりません。これほどまでに神様に愛されている日本とは、一体どの様な国なのでしょうか?
小林牧師
その御質問は余りにも重要な、そして核心を衝くものです。「天皇と日本の国」に関しては主題」として後ほど詳しくお話したいと思います。
長崎の地で神の知恵と霊に燃え歩んでいるフルベッキは、明治2年、新政府から白羽の矢を立たれて、正式に招聘をうけます。帝国政府は高官を長崎に遣わし非常に丁重に正式に速やかなるフルベッキの上京を要請されたとのことです。そのために船を長崎港に派遣したのです。同年2月22日付、宣教師あてに出したフルベッキの手紙によると、新政府の混乱振りをこう評しています。「この国では、あらゆる国の公使から多くの一般の外国人に至るまで、帝国政府の力を持つ人物たちと接触するために、どれほどの競合があるか、あなたには想像できないでしょう」と言わしめる程に当時、首都では、水面下において新政府の要人との人脈を獲得するため、列強各国の公使たちの他、多くの外国人たちが踏み合うばかりに鬩(せめ)ぎ合い画策に狂奔し、混乱の極に達していたのです。そしてローマカトリックも最大限に新政府に働きかけている最中、長崎のフルベッキは、祈りの中で「熟考した結果、断る理由は何も無い」(2月の書簡から)、さらに「この招聘に神の摂理を確信」して、明治2年2月16日正式に新政府からの要請の受理を決心します。明治3年6月、長崎浦上の地では、政府の命令によって三千有余のキリシタンの方々が捕らえられ、其の波はプロテスタントの人々にも及んでいるという時勢にも関わらず・・・。
2月16日正式に新政府からの要請の受理を決心するのです。かくして1869年、明治2年3月23日新政府から派遣された船で36名有余の生徒たちと共に長崎港を後に、首都に向かって出帆するのです。
「主によって開かれた門を、そして主によって備えられた道の中央を、王の王主の主なるイエス・キリストが、神の僕フルベッキと共に」開国も新たな日本の中央政府に無くてはならない人として招き入れられたのです。
神はかつて、1864年初頭フルベッキに与えた
「見よ、汝の前に門戸を開放した」という御言葉を更に堅くされたのです。
神の語られた、「開放された門戸」とは、即ち、久しく封印されていた真理が、神の手によって解き放たれ、神の奇(くす)しき方法よって真理と神の御業がこの国の中枢の水面下から放たれて飛翔して行くという、約束の地日本に神の国の到来を宣言し、回復の先駆けの恩寵の言葉でもあった、と信じるものです。
「門よ、汝らの首(こうべ)をあげよ
とこしえの戸よあがれ
榮光の王 入りたまわん」 詩篇24章7節(文語元訳聖書)
次号へ 監修・文責 INRI研究所 島茂人
注・引用は総て「日本のフルベッキ」W.E.グリフィス著から
松浦 玲 監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店平成15年発刊
追記@フルベッキの研究をはじめとして、その周辺の重要な資料や
幕末・維新のキリスト教の動静を研究したホームページがあります。
向島キリスト教会(尾道市)南沢満雄牧師 http:www.333.ecnet.jp
追記A検索ワード「ミレニアム・地を従えよ」のサイトに随時
共同研究による最新情報を公開中です。INRI研究所より
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「神の摂理と日本」のはじめにあたって編集部より
2001年当時のインタビューの折、小林師は母である仁(しのぶ)様が、父・明治天皇から、フルベッキが新政府にとって如何に重要な役割を担っていたかを聞かされていたそうです。小林師がフルベッキの存在の不可欠的な重要性を強調されていたという事情から、当編集部としては、何としても裏付けが取れるような詳細な資料をと求め渉猟したのですが、フルベッキに関する既存の資料を尋ねても、また巡る人々に関する著作等からも、その情報の特異性から全くと言っていいほど彼に関する資料を発見する事が出来ませんでした。フルベッキの頑(かたくな)な迄の徹底した守秘ぶりに感嘆するやら、或いは明治学院の書庫深くに資料が眠っているのかも知れないとも思ったものでした。裏付け資料の入手の叶わない中、情報提供して下さっている小林師に済まないと思いつつも、大幅にフルベッキの項目を割愛して、前回のインタビュー記事の発刊がなされた訳でした。しかし今回、神様の導きにより、幸いにも千載一遇の機会に恵まれました。村瀬寿代氏訳・松浦玲氏監修・洋学堂書店発刊による、W.E.グリフィス著「日本のフルベッキ」という、素晴らしい著作に巡り合うことができたのです。また研究されている方の貴重な御助言も仰ぐことが出来たのでした。これらの導きを通して、小林師が語られていた、フルベッキに関する多くの事柄の裏付けをとる事が出来、また新たな資料も入手することができ、今回の加筆増補版の記事が実現したのです。類なき訳業との邂逅と貴重な御助言等の恩恵に浴すことが出来た幸いを感謝しつつ、今回の増補加筆版の運びに至った事に、深甚の謝意をここに捧げさせて頂きます。 INRI研究所 島茂人